あやなりBP

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2023年7月掲載
内藤 善康 先生

内藤 善康 先生

(文教大学付属幼稚園・小学校・中学校・高等学校/1951年〜1997年在籍)

溝の口小学校をはじめ、多くの学校の設置に携わる

 2023年10月で95歳になるという内藤善康先生。身延線甲斐岩間駅に近い大乗寺に一人でお住まいである。お寺の長男として生まれたが僧侶になるのが嫌で、東洋哲学科へ進むべきところを、早稲田大学西洋哲学科へ入学。戦争が終わってすぐのことである。ところが戦後の産業復興が追いついておらず、卒業しても就職口がない。「本当はジャーナリズムの世界に行きたかった」と言うが、さまざまなご縁があって、文教大学学園(当時:立正学園)の小学校開設の仕事を任されることになった。
 「戦後は小学校が足りない時代で、付属幼稚園の父兄たちは小学校の設立を熱望されていました。文教大学学園を創立した小野光洋先生は、私と同じ山梨県出身。先生のたっての願いでお引き受けし、そこから東京都学務課へ日参するなど、設立の手続きに駆けまわりました」
 こうして設立したのが立正学園小学校(現在の付属小学校)と、立正学園玉川小学校(のちの文教大学付属小学校〈溝の口小学校〉)である。

「舞踊」や「英語」、私学らしい科目を取り入れ新設

 開校当時の小学校の年間の予定には、1年生からの全児童を対象とした夏休み行事、校外学習、スイミングやスケート教室など、現在から考えると画期的で楽しいカリキュラムが用意された。また私立学校らしい新しい科目として、現在も残る「舞踊」や「英語」の授業を取り入れたのも内藤先生だ。内藤先生が自身で執筆された『回想年譜』には、当時の様子が次のように記されている。
 「中学校は女子校だったので男子は他校を受験しての進学、その指導は受ける児童は勿論教師も大変だった。学習効果を高めるための気分転換の工夫、高学年の担任教師は土、日になると子どもらを集めて野外に出掛けて共に遊びに熱中した。その頃は緑の野猿峠や奥多摩などに何回出掛けたことか。また、私学は公立学校と異なって教師の異動は少ない。そのためもあってか進学後も学校帰りに立ち寄る子たち、在校生を交えて学校は何時もにぎやかであった。教師も管理されることも少なかったので自分たちの学級の指導に熱中し、教え子の成長を何時までも楽しんだ」

戦争遺跡を油絵に、戦争のない世界を願う

 さて、現在の先生は、奥様を亡くされて実家のお寺に一人暮らし。
 「家内が亡くなったとき息子夫婦に、これからは掃除、洗濯、料理、すべて自分でやるので手を出してくれるなと頼んだんですよ。それをやらなければ頭がダメになる。元気で長生きの秘けつは、頭と足を使うこと。特に料理は頭を使いますね。世の男性たちは奥さんに頼ってばかりいないで、もっと料理をするべきだと思います」
 掃除の行き届いた本堂。そして本堂からつながるご自宅の壁には、自作の絵画がかけられている。これは退職後、趣味で始めた油絵。キャンバスに描かれている真っ青な海と緑の島なみは、第二次世界大戦の戦地となり、約1万人の日本人兵士が犠牲となったパラオのペリリュー島だと言う。「ペリリューの戦い」と呼ばれる戦闘の地には、2015年、上皇・上皇后陛下(当時の天皇・皇后陛下)が訪れ「戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にして海に横たふ」という歌を、翌年年頭の歌会始でお詠みになっている。
 「中国はもちろん、モンゴル、グアム、パラオ、ラバウル、そしてパプアニューギニアを回り、各地の慰霊碑、墓地法要に加え、戦跡を油絵に残しました。戦争が終わり、図らずも小学校の先生となり、教える喜びを得ました。特に子どもたちと野外へ出て学ぶことが好きでした。それは戦争のない平和な世界だからできたこと。戦争のない世界を願います」

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    • 内藤 善康 先生
    • ないとう よしやす
    • 1951年から1997年まで46年間にわたり文教大学学園に在籍。溝の口小学校をはじめ多くの学校の設置に携わり、幼・小・中高の園長・校長を歴任。退職後は実家である山梨県大乗寺の住職を勤め、引退後の現在は庭仕事などを楽しんでいる。
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