
「今も仲が良いのは、中・高と6年間一緒に過ごした友達ですね」と話す、田村ゆき子さん。先日もバラの咲く季節に神代植物公園に共に出かけ、友人は絵を、田村さんは俳句を詠んで過ごしたと微笑む。
とりわけ思い出深いのは、その友人らと共に創設した体操班(当時は部を班と呼んでいた)でのこと。
「代表として、予算を獲得するため申請に出向きました。当時強かったバレー部にはたくさんの予算が付きましたが、私たちには実績がありません。先生との交渉は大変でしたが、それでも当時で5万円という額を引き出し、ユニフォームや器具をそろえることができました。その翌年、東京都の新人戦の団体戦で6位に入賞。創部2年目にしてはなかなかの快挙だったと思います」
学校での思い出は、先生たちとの交流の思い出にもつながる。私立大学受験時には、古文の先生が現国の長文対策のために「朝日新聞の天声人語を原稿用紙1枚にまとめてくるように」と課題を出し、毎回赤ペンで添削してくれた。また英語を熱心に勉強していた田村さんを、英語の先生は自分がプライベートで通う語学教室に連れて行ってくれたりした。「こうした先生方の姿に『子どもたちを花開かせるような教師という職業もいいな』という気持ちが芽生えたのかもしれませんね」
上智大学外国語学部スペイン語学科を卒業後、小学校の教員の道に進み定年まで勤め上げた。定年前のおよそ10年間、その語学力を買われ、帰国生や外国人児童が多く通う小学校で国際教室を担当することに。そこでなかなか日本語になじめない外国人児童が発する短い単語の連なりが、俳句の韻律に近いことに気づく。「それを“俳句遊び”として学習に取り入れると、子どもたちも楽しんでどんどん言葉を吸収していきました」
俳句の力を感じた田村さん。もともと父親の影響で俳句には親しんでいたが、定年の1年前に俳句教室に入門。真剣に俳句と向き合うようになり、2017年にはついに初の句集『雲南の凍星』を刊行した。現在は川崎市内にある9つの句会で俳句講師を務めている。さらに地元・川崎市高津区で「高津全国俳句大会」を発足。大物ゲストや人気講師を選者にするなどして大きな大会に成長させている。今、田村さんにとって俳句は「地元である高津のすばらしい歴史や文化遺産を、後の世代に引き継ぐための文化活動のひとつ」と話す。十七音に、自然や命の輝きをのせて多くの人の心に響かせている。