あやなりBP

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2020年8月掲載
浅井 えり子 さん

浅井 えり子 さん

(文教大学人間科学部人間科学科/1982年卒業)

生涯つき合える友人たち、そしてマラソンとの出会い

 「足立区の家から越谷キャンパスまで、毎日走って通学していた」という伝説の人が、1988年のソウルオリンピック女子マラソン出場の浅井えり子さんだ。1984年のロス大会では、候補に選ばれながら落選。しかし、十代の頃から日本記録を樹立するなど頭角を表していた増田明美さんと並んで候補に選ばれたことで、「必死になれば行ける」という手応えを感じた。そこからさらなる練習と実績を重ね4年後、ソウル大会の切符を手に入れた。
 浅井さんの陸上競技のスタートは遅い。都立足立高校の陸上部に入り、都大会で予選落ちしたことが大学でも陸上を続けるきっかけとなった。当時は800m走の選手で、マラソンを始めたのは大学3年生の時。「マラソンを始めてからまったく勉強しなくなった」と今でも友人たちに笑われる。
 「走ってばかりいて、ゼミの友人たちには『浅井は私たちのおかげで卒業できた』と言われています。大学へ行ってよかったのは、生涯つき合える友人たちと出会えたこと。彼らとは今も年に1回は必ずゼミ会を開き、会えるのを楽しみにしています」

自分が満足するまで競技を続けたい

 今でこそ女子マラソンは陸上競技の花形種目だが、浅井さんが始めた頃は手探りの状態だったと言う。だからこそ「どこまでやれるのか試してみたい」と、卒業後も実業団に入り陸上を続けた。全国大会どころか関東大会にも出場できなかった少女がオリンピックの舞台に立つ。高い、高い山の頂点を極めたと言えるが、浅井さんの気持ちは違った。
 「オリンピックはほかの大会とは、感じる重さがまるで違う。力を出しきれず25位の成績で、満足するまでやめられないと思いました」
 2時間30分を切る。これを目標にして走り続け、33歳、名古屋国際女子マラソンにおいて4位の成績で目標達成し、翌年の同大会では優勝する。その後は実業団陸上部の廃部に伴い、実業団時代の恩師・故佐々木功監督が提唱した「ゆっくり、長く走る」L・S・D(Long Slow Distance)トレーニングの継承者として、指導や研究活動を行っている。現在は足立区教育委員会委員で子どもたちのスポーツ振興のための事業に携わるほか、帝京科学大学客員教授として駅伝部のアドバイザー役を務めている。「今でも走っていますが、2時間30分と5時間30分で走るのはどちらが大変か。L・S・D理論からすると、もしかしたら5時間30分で走れる方が能力は高いのでは、と考える時があります」
 さて伝説の話だが真相は? 
 「走ったこともありましたが、毎日ではありません(笑)」

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    • あさい えりこ
    • 1988年オリンピックソウル大会へ女子マラソン日本代表として出場。 足立区教育委員、帝京科学大学客員教授
      文教大学人間科学部人間科学科 1982年卒業
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